Ireland Diary
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| Cafe en Seineの思い出
『カフェ・オン・セーヌ、本日、夕方5時オープン』と張り紙してある。 真新しいペンキの匂いのするドアに手をかけたとたん、私の胸に懐かしい思い出がこ ぼれ出てきた。 かつてダブリンに“カフェ・オン・セーヌ”というフレンチカフェがあった。パブを ちりばめたようなこの国で、その雰囲気がとても気に入った私は、待ち合わせや暇つ ぶしに、よくそこを利用するようになった。 緑の扉を開けると、吹き抜けの天井から下がる、クリスタルのシャンデリアが、魅惑 的な陰影を投げている。赤煉瓦の壁には、フランスの下町を描いた油絵がかかり、色 とりどりのお酒が、ガラス棚にずらりと並んでいた。トイレの表示は、DAME/HOMMEと フランス語のみ。迷ったあげく、男女の別を間違う人々も多かった。 ある日の事、フランス人の友人が”デカフェ(カフェイン抜きのコーヒー)を注文 した。7年前の話で、当時のダブリンには、デカフェなどという”しゃれた”もの は、なかったように思う。予想通りウェートレスは、首をふった。すると友人は、 とっておきのウィンクをしながら、こう言うのである。 ゛何かそれに近いもので、いいのだけど“ アイルランド人とは趣の違う、フランスの風にあてられたウェートレスは、頬を染めて即答した。 ”オーケー、まかせて” このフランス風アプローチは私を呆れさせ、また感心させた。しかし、このカフェで はそんな仕種でさえも自然に映るから不思議だった。カフェ・オン・セーヌで、コー ヒーを飲みながらピープル・ウォッチングをする。ゆっくりと時が流れ、時折、こん な会話が耳に入ってきた。 ”やあ、ダラー、久しぶりじゃないか。これまで何処に雲隠れしていたんだい” ”うん、執筆の仕事で、ここ数年パリ暮らしだったのさ。ところでカールはどうして る” ”ああ、彼なら今、映画の撮影でインドだよ” 思えばここに来るのは、映画関係者や脚本家のようなクリエイティブな仕事に携わ る人、もしくはダブリン在住外国人が多かったような気がする。金曜日の夜には、宝石のように美しい高級娼婦が、客を求めてキャットウォークをしていた。 ここでは多くの恋も生まれたようだ。見知らぬ人々が出会い、特製の魔法をかけられ て、恋に落ちていった。前述したフランス人の友人が、生涯の伴侶になる女性に出 会ったのも、確かこのカフェだったと記憶している。実に摩訶不思議なカフェ。異次 元から来た人々が、親近感を感じながら、同空間に存在している、そう思わせてくれ るのがカフェ・オン・セーヌだった。 数年後、カフェ・オン・セーヌはその魔法を失い、ありふれたアイリッシュパブに変わっていった。同時に私の足も遠のき、そのうち、カフェ・オン・セーヌはクロー ズしたと風の便りに聞いた。 1年以上も『改装中』と張り紙されたままのドアの向こうに積み上げられていた、誇 りまみれのガラクタ。それらはもうない。 新しいページをめくったカフェ・オン・セーヌ。今後はどんな人々が引き寄せられ、 どんな思い出を紡ぎだしていくのだろうか。
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