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男と女のスリリング
『男と女のスリリング』−映画で覚える恋愛英会話

字幕翻訳の第一人者戸田奈津子さんが、映画の中のしゃれたセリフを軽妙なエッセイで紹介。場面 を説明しながらの解説は、生きた英会話のレッスンになる。 この『男と女のスリリング』(集英社)の中から、華やかな仕事に隠れた厳しさや、戸田さんの映画への情熱をつづったライフストーリーと、小粋なラブストーリー『恋人たちの予感』をご紹介。
男と女のスリリング(集英社文庫) 


Prologue
字幕の仕事ができると信じて

ジェームズ・キャメロン監督。このタイタニックのタペストリーはいただきました!

映画字幕のプロとして認められるようになって、十数年。

なによりも映画が好き。だから、その楽しみを大勢の人々とわかち合うために、なにか自分を役立てたい。そんな思いに駆りたてられながら、ここまで無我夢中で突っ走って来たような気がします。



画面いっぱいに広がる夢のような世界

私と映画との出会い。それは、「飢え」の記憶から始まります。

小学校にあがったころ、日本は第2次世界大戦の真っ最中。アメリカをはじめとする敵国の映画が禁止されていたのはもちろん、英語すら使ってはいけないという時代でした。

それがようやく解禁になったのは、終戦(1945年8月)の翌年(1946年2月)のこと。小学校高学年になっていた私は、家族に連れられて、さっそく映画館へ通 い始めるようになりました。

私の家族は、特別に映画ファンだったわけではありません。ただ、長いこと見たくても見られなかった洋画に対して、精神的な「飢え」を感じていたのです。また、食べるものも満足にないという現実的な「飢え」をまぎらわすには、映画が唯一の娯楽の手段だったという状況もありました。

それは、多くの日本人にとって共通する思いだったようです。

当時の東京は一面の焼け野原。その焼け跡の中に立てられた、掘っ立て小屋同然の映画館は、いつ行っても立ち見客であふれてドアが閉まらないという超満員の状態。私も、叔父に肩車をしてもらって、大人たちの頭ごしにスクリーンをのぞき見た覚えがあります。

画面いっぱいに広がる夢のような世界。生まれて初めて目にした外国映画には、心の底から衝撃を覚えました。アメリカとは、なんて豊かな国なんだろう......と。

ましてや、お腹をすかせているだけに、食べ物が出てくる場面は一段と強烈な印象です。

たとえば、『チャップリンの黄金狂時代』(25年/戦後の日本公開は46年)では、チャップリンが靴を食べるシーン。『荒野の決闘』(46年/47年公開)では、酒場のシーン。『ジェニーの肖像』(47年/51年公開)で主役のジェニファー・ジョーンズが、セントラル・パークのスケート場で飲む湯気の立つチョコレート。中流家庭という設定の『花嫁の父』(50年/52年公開)の家のガレージには2台も車があって、結婚のプレゼントが山のように贈られてくる。

映画のドラマそのものに浸る楽しさもさることながら、終戦直後の貧しい世界に生きていた女の子は、自分たちにないものをふんだんに見せてくれる洋画に憧れをつのらせたのです。

ふと気がついたときには、すっかり映画の魅力の虜になっていました。



お気に入りのジョセフ・コットン主演作を何度も繰り返し見た

ジェームズ・メイスン主演の『妖婦』(46年/47年公開)や『七つの月のマドンナ』(45年/28年公開)といったイギリスのメロドラマが流行したのは、中学にあがったばかりのころ。ジャン・コクトー監督の『美女と野獣』(46年/48年公開)が、戦後初のフランス映画として公開されたのも同じ時期です。

こうしたヨーロッパの作品に触れることで、私の映画の世界もいちだんと広がりを増していきました。

仕事帰りの母と待ち合わせしてロードショーを見たり、映画好きのお友だちと「3本立て100円」の名画座へ通 ったり。中学も後半になると、ついにお友だちを待ち切れなくなって、ひとりで劇場へ出かけるようにもなりました。

好きな映画のジャンルには偏りがあって、邦画や戦争アクション、西部劇などは、ほとんど見ていません。

夢中になったのは、文学的な香りのするものや、ロマンチックな作品。もともと小説を読むのが大好きでしたから、文字で親しんでいたフィクションの世界が映像で見られることに、たまらなく魅せられたのです。

とくに忘れられないのが、『ジョニーの肖像』『第三の男』(49年/52年公開)『旅愁』(50年/52年公開)。奇しくもこの3本はすべてジョセフ・コットンの主演作ですが、彼は当時を代表する渋い二枚目で、映画のよさもあいまって、私のごひいきスター第1号になりました。

ジョセフ・コットンの次は、『陽のあたる場所』(51年/52年公開)のモンゴメリー・クリフトのファンに。お友だち同士、モンゴメリー・クリフト派とグレゴリー・ペック派にわかれ、「私の彼のほうがステキよ」なんてキャーキャー言い合ったことも、いまは懐かしい高校時代の思い出です。

高校生ですから、お小遣いにも限りがあり、ロードショーへ1回行くよりはと、そのお金で名画座や3本立て映画へ数多く通 いました。もちろん映画雑誌やラジオ番組の試写会無料招待には片っぱしから応募。当時は配給会社の試写 室へ招いてくれることもあって、生まれて初めて、小さな試写室という所へ足を踏み入れる経験もしました。まさかそこが将来の仕事場になるとは、夢にも思いませんでしたけど。

とぼしいお小遣いを割いて、映画雑誌も買いました。英語で言うなら、cover to cover。つまり「オモテ表紙からウラ表紙まで」なめるように読んだものです。好きなスターのポートレートを見たり、記事を読むときの胸のドキドキは今も昨日のことのように思い出されます。


サンキューのひと言だけでもわかるようになったのが嬉しかった

大学は、津田塾大学の英文学科に進みました。といっても、映画と英語が結びつくのは、ずっとあとのこと。理数系はまるでダメ、歴史は好きでしたけど、あまり職業につながりそうもないし、いちおう英語なら何とかなりそうだ......というのが、英文学科志望の動機。つまり、消去法で残ったのが英語だったわけです。

英語との出会いは、当時のほとんどの日本人がそうであったように、中学に進学してから。戦争中は英語が禁止されていたのですから、中学までは英語のエの字も知らず、「ドッグ」のスペルは「DOG」ではなく、ローマ字で「DOGGU」と書けばいいと思っていたくらいです。

中学で英語の授業が始まって、「アメリカ映画で耳にしている、あのことばを勉強できるんだ!」と張り切ったのですが、もちろん一朝一夕で英語が上達するわけはありません。しかも最初は退屈な発音記号ばかり教えられたために、すっかり英語への意欲をそがれてしまいました。

そのままだったら英語の落ちこぼれになっていたかもしれませんが、幸いにも中学2年のとき、とてもいい先生にめぐり会い、状況が変わりました。レベルの高い授業をなさる女の先生で、和文英訳の宿題などを出して、英語が好きになるように、うまく生徒を引っ張ってくださったのです。おかげで英語への興味が一気に高まり、「好きこそものの......」で点数も上を向くようになりました。

半年くらいしか教えていただかなかった先生ですが、もしもあのときの出会いがなかったら、私は英語が嫌いなままで、こんな仕事にもつかなかったはず。そう思うと、出会いのタイミングって大切だなと、つくづく感じます。

それからは英語が得意科目になりましたが、そのころは視聴覚教育などということばもない時代で、聞いたり話したりする訓練はゼロ。第一、生きた英語が聞けるのはFENの放送か、映画館のなかだけだったのです。最初は映画を見ていて「サンキュー」の一言が聞きとれてもうれしい、という情けない耳でした。それがふた言になり、三言になり......好きなスターの言っているセリフを、もっと聞き取りたいという映画ファンとしての気持ちが、英語を勉強する励みにつながっていったのだと思います。



生まれて初めてバレエの通訳の仕事を。楽屋の出入りが楽しくて

こう言うと、なにか脇目もふらず勉強していたようですが、実は大学時代の私は、学校よりもむしろ映画館に通 っていたほうでした。

学校があったのは、国分寺の郊外。通学に時間がかかったのに加え、中央線沿線には魅力的な映画館が数多くあったので、ついつい途中下車。こんな調子で過ごした大学の4年間は、まさに映画にのめり込みたいだけのめり込んだ時期です。

初めて英語をしゃべったのも、大学ではなく、アルバイトの場でした。

英語が専門の津田塾といえども、当時は英会話の授業などないに等しい状態で、もっぱら読み、書く、の文字だけの英語。夏休みを控えた大学2年のとき、アルバイト紹介の掲示板に、「バレエ学校での通 訳」という文字を見つけて、とびついたのです。

アレクサンドラ・ダニロウアという大変有名なバレリーナ(『愛と喝采の日々』にも出演)がバレエ学校でレッスンをされることになり、その通 訳をするという仕事でした。

ひどくたどたどしいものだったとは思いますが、英語を話すことへの恐怖感よりも、とにかく話してみたいという気持ちのほうが強かった。いまのように英会話学校が氾濫している時代と違って、ヒアリングやスピーキングが実地で体験できる機会なんてめったにないものでしたから。

「門前の小僧」でバレエ用語などもいくつか覚えたので、翌年、ニューヨーク・シティ・バレエ団のアルバイトの話が舞い込んできたときは、喜び勇んで飛びつきました。

団長はジョージ・バランシン。『略奪された七人の花嫁』(54年/54年公開)でエフレイム役を演じていたジャック・ダンボワズ以下、アレグラ・ケント、メリッサ・ハイドンなど錚々たるダンサーたちが来日しての公演です。そのパフォーマンスをまる2週間、毎晩見ることができたのですから、これほどラッキーなことはありません。

関係者として楽屋に出入りできたことも、ミーハーな私には嬉しいオマケでした。ダンサーのタイツを洗ったり、お使いに行ったりという、雑用係をやっていたので、とくに英会話が上達したわけではありませんが、一流のアーティストの舞台を目のあたりにしたことが、私にとっては素晴らしく豊かな心の栄養になったのです。


集英社
『男と女のスリリング』より。



Page2:子供のころから映画に夢中だった戸田さんが、いよいよ大学を卒業し翻訳者に。しかし、まだまだ道は険しかった・・・。

戸田奈津子さん:プロフィール

東京都出身。津田塾大学英文科卒業後、生命保険会社の秘書を経て、フリーで通 訳・翻訳の仕事をするようになる。清水俊二氏に師事し、1972年『小さな約束』で映画字幕デビュー。
その後、来日時に通訳についたフランシス・フォード・コッポラ監督の推薦で『地獄の黙示録』(1980年日本公開)を担当。日本の映画字幕翻訳者の第一人者として認められるようになった。1992年、第1回淀川長治賞受賞。現在も年間40本を手がけ、第一線で活躍。

2001年8月8日には『男と女のスリリング』の続編、『スターと私の英会話!』が集英社から出版されている。
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