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なんや、これ? アメリカと日本

なんや、これ? アメリカと日本

【著者からのことば】
翻訳は地味な仕事だ。縁の下を這いずりまわり、ない力を振り絞っているのが翻訳者だ。だが、その役割は決して小さくはない。外国のすぐれた文化、知識、情報を日本人が日本語で吸収できるようにするのが翻訳の役割である。それによって、明日の日本文化を支える基盤を築く一助になるのが翻訳である。 このような重要な役割を担っている点を考えれば、翻訳とは何か、翻訳とはどういう職業かについての真剣な議論がほとんどないのは残念なことだ。翻訳が気楽な副業、気楽な内職になるかのような話ばかりが目につく。翻訳という仕事を軽く見る傾向が、翻訳の学習者や翻訳教育関係者、翻訳書の読者、そして一部の編集者や翻訳者にまであるのは心痛むことだ。 本書が、一生をかけた職業として翻訳に真剣に取り組んでいる人たち、これから取り組もうとしている人たち、編集者や発注者として翻訳に関与している人たち、読者の立場で翻訳に興味をもつ人たちが翻訳について深く考える際に、わずかでもヒントになればと願っている。

翻訳とは何か 職業としての翻訳
山岡洋一

第1章 翻訳とは何か 汝はいかになしなすか

いまではそういう機会も少なくなったが、少し前までは年寄りと英語の話をしていると、「汝はいかになしなすか」の例がよくでてきた。昔は英語を習うとき、たとえばHow do you do?は「汝はいかになしなすか」だと教えられたのだという。この文にはdoが二回でてくるので、「なす」を繰り返したものだと笑う。

このように、昔は英語を学習するときに、漢文式の方法が使われていた。今ではさすがに、「なしなすか」などと教える人はいないだろうが、それでも、漢文読み下しの伝統は英語教育にしっかりと根づいている。たとえば、漢文の返り点と同様に、後ろから前に読んでいく方法がすっかり定着している。また、「〜するやいなや」、「ただ〜だけでなく〜も」など、独特の文型が使われている。英語の単語に一対一対応で訳語を割り当てていく方法も健在である。人称代名詞がその好例であり、「彼」、「彼女」、「あなた」などが考えもせずに使われる傾向がある。「汝はいかになしなすか」を笑えるほど、いまの英語教育が進歩しているわけではない。「汝はいかになしなすか」を笑えない理由はもうひとつある。それも、もっと重要な理由が。その昔、How do you do?を「汝はいかになしなすか」だと教えたとき、教える側も学ぶ側も、これがこの文の意味だとも、訳だとも考えてはいなかった。この文の意味は「初めまして」なのだが、英語を学習する際の便法として、まず、「汝はいかになしなすか」と覚えるべきだとされていただけである。

このように、英文をまず、漢文読み下し式に解釈し、つぎに意味や訳を考える方法は、決して非合理だとはいえない。たとえば、一九七〇年代、翻訳の華は和英翻訳、和英翻訳の華は工業英語だった時代に一世を風靡した岡地榮が、英語学習の方法として「原文の素読」を提唱している。『和英てにをは発想辞典』や『品詞別語句まわり活用辞典』などで、「英語そのものを把握するために原文の素読を、あたかも漢文の素読のごとく」行うようすすめている。日本人の言語中枢は日本語でできているので、英語よりも日本語の方が覚えやすい。素読文という疑似日本語を介して学習すれば、自然な英語が身につくようになると岡地榮は述べている。

繰り返すが、「汝はいかになしなすか」も、岡地榮のいう素読文も、英語学習のための便法であって、訳ではなく、まともな日本語ではない。たとえば、岡地榮のいう完全素読文では、原文に定冠詞があれば「その」、「与えられた」、「ただ一つある」などと読み、不定冠詞があれば「いち」などと読む(岡地榮著『デジタル時代の科学技術英語』丸善刊、四九ページを参照)。これで、日本人の不得意な冠詞の感覚がつかめるようになるという。素読文はたしかに疑似日本語であり、日本語そのものではない。英語学習のための方法だという性格がはっきりしている。「汝はいかになしなすか」を笑えるほど、いまの英語教育が進歩しているわけではないといえるのは、疑似日本語であることがはっきりするほど、普通の日本語とかけはなれてはいないが、かといって普通の日本語とは言いがたい訳文が教えられているからである。

山岡洋一『翻訳とは何か 職業としての翻訳』より

Page2:第4章 翻訳の市場 翻訳の需要

著者プロフィール
山岡洋一(やまおか よういち)
1949年、神奈川県生まれ。経済・経営・金融分野を中心とする出版翻訳と産業翻訳にたずさわる。編著書に「ビジネスマンのための経済・金融英和実用辞典」(日経BP社 1996年)、訳書に「ビジョナリー・カンパニー」(日経BP出版センター 1995)、「クルーグマンの良い経済学悪い経済学」(日本経済新聞社 1997)、「市場対国家」(日本経済新聞社 1999)、「バブルの歴史」(日経BP出版センター 2000)など多数。

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